2008年02月15日

日本初の住宅ローン

しかし経済が不安定です。
もともと住宅ローンというのはどのようなことなのでしょうか。


日本の住宅ローンは100年以上の歴史がある。日清戦争が終わり経済が活況を呈してくると、一般の市民の間にも建物新築の機運が高まってきた。しかし、金融機関による住宅ローンなどの制度がない中では一般市民の住宅資金は金貸しと呼ばれる個人金融業者に頼るほかはなく、個人の住宅建設、不動産売買の弊害となっていた。法人組織による不動産金融事業の必要性から、安田財閥の創設者である安田善次郎は、一般市民のための不動産金融とその付帯事業のため、1896年(明治29年)に東京建物を設立した。1897年(明治30年)に掲載された東京日日新聞の紙面広告によると、返済期間は5年以上15年以内と定められており、これが日本の住宅ローンの原型と言われている。そのため、日本の住宅ローンは、銀行や公的機関ではなく不動産会社から発祥している。


関西圏の住宅ローン
阪急電鉄の創始者、小林一三は、関西圏で土地付き住宅の月賦販売を行った。1907年(明治40年)、前身の箕面有馬電気軌道を設立した小林は、鉄道沿線の付加価値を高めるため、本業以外に、土地開発や、百貨店、娯楽施設などの経営にも乗り出す。事前に安く仕入れた土地を、鉄道敷設によって地価を上げ、住宅地として分譲した。当時、土地を購入するのは資産家に限られていたが、中間層にも顧客の幅を広げるために、月賦販売を積極的に行った。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月08日

天竜川の下流域

こんな歴史があったのですね。
本当にびっくりな歴史ばかりです。


奈良時代付近までは天竜川を麁玉川(あらたまがわ)と呼んでいた。平安時代の文徳実録では、853年の記録では広瀬川と名称されていた。度重なる洪水で河道が変化していた事が推測できる。麁玉川は浜松平野の西側(三方原台地側)を流れていた。そして鎌倉時代の頃には東側(磐田原台地側)に本流が移ったと推測されている。西側の河道も残っていて、1572年頃の河道の様子が甲陽軍鑑に記録されている。それには麁玉川ではなく「小天竜」と記載されている。ちなみに、小天竜の河道の名残は現在、馬込川となっている。

古くは続日本紀において715年(霊亀元年)5月20日に「山崩れて麁玉河を塞ぎ水これがために流れず、数十日を経て敷地、長下、石田三郡の民家百七十余区を壊没する」と記載されている。下流域に壊滅的な被害があったと推測される。さらに、761年(天平宝字5年)には「遠江国麁玉河の堤防が300余丈(約1Km)決壊。延労力30万3,700人に食料を支給し、天宝堤の災害修築をする。」と記載されている。ゆえに、761年以前から治水事業は行われていた事になるが、現時点では天宝堤の構築時期は不明である。以後戦国時代までの正式な治水記録は残っていない。

天宝堤修築以後の公式記録では、元亀・天正年間の1573年、当時浜松城主であった徳川家康が遠江を領有していたが、天竜川流域を境にして激しく争っていた武田信玄・武田勝頼から本拠地である浜松城や三河を防衛するため、また新田開発を実施して収穫高を増やして国力を高める目的で天竜川の整備を始めた。第一次小天竜(現・馬込川)の締め切り。及び右岸堤防、寺谷用水取入口に伴う左岸堤防構築を計画。1588年(天正16年)には「伊奈流」治水事業で名高い伊奈忠次に治水事業を命じる。1590年(天正18年)に家康が豊臣秀吉の命で関東に転封された後も天竜川の治水事業は後任の浜松城主・堀尾吉晴に引き継がれ、翌1591年に一応の治水事業は終了した。

しかし、それでも治水は完全ではなく遠江国でも江戸時代には多くの水害があり正確な洪水の記録が残されているが、それらの中には大洪水の時は東は福田町・西は浜名湖まで洪水被害が及んでいたと伝えられている。江戸時代においては徳川家康が江戸に幕府を開いてから、徳川氏との縁が切れてしまい天竜川の治水は停滞、治水事業が後手にまわり改善が進んでいなかった。譜代大名が封じられた浜松城は在任していた大名がその後老中などの幕閣に登用されることが多く、出世城と呼ばれていて城主が次々に交代した。ゆえに浜松城主になる事は「出世の為のステップ」と意識されるあまり、住民の生活向上は二の次的であった。その為、治水事業は自治単位で行われていた。例えば、二俣川の治水工事は莫大な予算が必要であった為、幕府・藩は却下している。当時の二俣地区(後・天竜市、現・天竜区、二俣町)における洪水被害は甚大であった。大規模な治水工事も殆どが自治単位で行われて、幕府は代官所を設置してその工事に対して許可をだすだけで事務的な対応となってしまっていた。

江戸時代における下流域の治水事業では彦助堤の築造が代表的である。一応1573年家康により西側の河道(小天竜)が締め切られたが、天竜川の流れに対して耐えられる工事内容ではなかった。従って、それ以後も大雨の度に小天竜の河道に水が乱入して洪水被害が発生していた。1656年に彦助堤は、小天竜の完全な締め切りを目的に築造された。松野彦助は浜北村(現浜北区)の庄屋で大地主であった。しかし、1674年の大洪水で彦助堤は崩壊してしまった。翌年1675年に復旧した。言い伝えでは”川の流れが強く、工事が進まなかった。それを見た彦助は「自分が人柱となるから工事を完成させてほしい。」と頼み川に身をなげた。これを見た人々は奮闘して工事を完成させた。”となっている。ただし、この話の裏付けは現在無い。そして1745年に彦助堤が切れた時に発生する被害予測を「天竜川通水工附帳」として、浜松藩および幕府にさしだした。(その後、藩・幕府の対応記録は無い。)

同時期、天竜川の支流である二俣川でも大規模な治水事業が計画された。二俣川は地形の関係で、大雨の時には通常より約10m近く天竜川の水位が上昇する地点で合流している為、被害は甚大であった。そこで、当時の二俣村名主袴田甚右衛門により河道の附替工事を行った。この工事には代官所の許可が費用の問題等でなかなか得られず、完成したのは1798年で20年以上の歳月を要した。

下って明治時代に入り、下流域の治水事業は明治初期に金原明善(株式会社丸運・創業者)により始まった。金原明善は、天竜川が原因による浜松市(当時は浜松県)の洪水災害を防ぎ、安定した市民生活および、産業発展を願い私財を投じて治水事業を開始した。主に堤防の整備を行ったが、山間部における植林作業を行い雨水が直接川に流入する事を防ぎ効果をあげ、浜松市の天竜区における林業発展のきっかけにもなった。それから、近代治水事業が本格的に始まり、明治後期に豊岡村(現磐田市)の流路を整備し、昭和初期には浜北市(現浜松市浜北区)上島地区の流路(大平川)の締め切りを行い、1944年(昭和19年)に天竜川東派川を締め切り、流路修正を行った。(東派は掛塚地区で水運に利用されていたために締め切り計画は当初は住民の理解を得られず一時中止となっていた。)そして、1958年(昭和33年)には西派川の締め切りを終了し、河道の一本化が完了した。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年09月20日

NOVA 200校閉鎖へ

NOVAの特定商取引法違反が発覚して三ヶ月たらずで200校も閉鎖に追いこまれてしまい、高額の受講料を支払った受講生達はこの先が不安でしょうね。最悪、倒産に追い込まれる前にポイントをつかい切るのが賢明だと思います。泣き寝入りだけは嫌ですもんね。


『参照記事』

「何も聞いていない」?。英会話学校最大手のNOVAが、都市部を中心に200校前後の閉鎖を検討していることが明らかになった20日、同校の講師やスタッフらには驚きや動揺が広がった。生徒勧誘時の誇大表現などが特定商取引法違反にあたるとして、経済産業省から一部業務停止命令を受けてから約3カ月。大量閉鎖で今後、受講生の間にさらに不安が拡大しそうだ。

 大阪市阿倍野区の天王寺本校に週3日通う貿易会社勤務の女性(31)によると、NOVAの社員から先月、「世間ではいろいろいわれているが、もっと良い会社にするので何も心配はいらない」と説明があったという。女性は「レッスンの残りポイントはあと20回分ぐらいだが、6年間通って英語も上達したし、この先NOVAがどうなるのか分からないので、新規購入はせず早めにポイントを使い切って辞めるつもり」と話した。

 一方、なんば本校近くの同社統括本部(本社)では、推進2課(広報担当)の倉辺喜之次席が開口一番、「会見の予定は一切ありません」と話すなどピリピリムード。ピンクの「NOVAうさぎ」グッズが並ぶ大部屋では社員らが報道機関の電話対応などを行った。